競技選手としての履歴書


20代・・余っている時間で何かを習いたかった。ピアノやギターを考えたが、ダンシングクラブのメンバーの1人とある会合で知り合い「女性もいるし若いメンバーだし運動にもなって特技にもなるしいいな」と思った。指導者が「ダンスはスポーツだ」と考える競技選手でもあり、私も共感してそれから競技の道へとひたすら進むのであった。(笑)

大潟ダンシング 昭和61年(1986年)1月31日地元のダンスサークル(大潟ダンシングクラブ)に入りダンスを始める。(当時26歳)
指導者の竹内さんを中心に毎週1回の練習をした。





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1986年6月29日:初めてダンスパーティに行く。マンボとかルンバとか踊れればいいなと思った。
1987年5月24日:競技大会というものを初めて見に行った。(越後大和海洋センター)
1988年1月 7日:サークルでは教わっていないパソドブレを習うためマキノダンススクールに入会
             木曜日の中級団体レッスンに入る。
1988年1月30日:団体では、もの足らず個人レッスンを開始した。
1988年3月 9日:サークルの指導者(竹内さん)に競技に出たいと告げる。(快く了承、励まされた。)
1988年4月18日:竹内さんと京子さん(競技パートナー予定)と私でマキノダンススクールに挨拶に行く。
             その後、彼女とは意見が食い違いペアレッスンを解消した。(;_;)
1988年6月 3日:竹内さんと私で小山さんにパートナーになってもらいたい事を説得
1988年6月14日:聡美さんとマキノダンススクールに挨拶に行く。
1988年6月21日:聡美さんとペアレッスンを開始!!(大会まであと5ヶ月)
ノビスモダン3位入賞

この大会の新聞記事は、
こちらから
1988年(昭和63年)11月上越市南厚生会館にてノビスモダンに初出場、3位に入って選手登録された。
パートナーの事情によりこの1回の大会でペアを解散(;_;)し一人の練習が続く。
その間、メダルテストなどを受けた。
1989年 2月22日:教室で美恵子さん(現在のパートナーです)と初顔合わせ、存在を知る。
               偶然か?巡り合わせか?前のパートナーと同じ9月29日生まれなのです。
1989年 9月17日:糸魚川のパーティーに一緒に行く。(美恵子さんともう1名教室の女性を連れて・・)
1989年10月10日:パートナーになってくれるようお願いした。翌日OKの返事をもらう。(^_^)v~ヤッタネ
1989年10月17日:美恵子さんとペアレッスン開始!!(モダンの大会まであと1ヶ月)
1989年11月26日:モダンD級戦に初出場22組中13位の成績に終わる。
ノビスラテン5位入賞 その後、モダンはD級からC級になるまでまる2年間かかった。
途中、気分転換にラテン種目も練習し、1992年(平成4年)9月三条厚生福祉会館にてアマチュアラテンノビス競技会で5位に入賞し新潟県ラテン選手に登録される。!(^^)!
C級モダン3位入賞 1992年(平成4年)6月三島町にて新潟県C級モダン競技会で3位入賞、翌年からB級に昇格
数年間はB級をやっと維持できていた。

その後、私の一身上の都合で解散、選手登録解消し競技をやめた。(T_T)でもダンスまではやめれなかった。

1995年(平成7年)ふたたび競技会に復活する。
再度D級から挑戦し1年間かけてB級にもどることが出来た。
ルンバ 1997年(平成9年)からラテンも本格的に練習。
1999年(平成11年)の4月ライジングスター戦(D級・C級混合戦)で運良く?2位になり困ってしまった。
なぜならばベーシックのステップしか知らなくバリエーションが出来ないからである。そこで来年度1年間ラテン競技を休む事にした。
2000年(平成12年)度に、JBDF(日本ボールルームダンス連盟)東部総局新潟支部のモダン・ラテン共にB級になる。(^_^)v
(一様B級ですが踊りは上手いとはいえません・・やっと維持出来ている程度。
このあたりから、しばらくモダンに絞って練習。
JDSF試合初出場 平成12年にJDSF(ダンススポーツ連盟)に選手登録し、富山・新潟大会にて3連続優勝
少し踊りに余裕が出たかな?

(詳しくは2000年度JDSF大会記録のページを)

平成13年パートナー新ドレス購入
JDSF長野C級戦で5位に入賞
4位までB級昇進であとわずか・・・

(詳しくは2001年度JDSF大会記録のページを)

平成14年9月燕尾服(中古だが)を交換し髪をばっちり決めたところJDSF富山大会でC級スタンダード2位でB級昇格!・2級ラテンで優勝し1級に昇格!!した。

(詳しくは2002年度JDSF大会記録のページを)

ラテンは取りあえず休みに入りスタンダードを集中して練習する。2003年(平成15年)後期から半分を女性の先生から習うことにした。いままで男性中心にがむしゃらに引っ張った踊りが、いかに女性を踊りやすく(時には待つ)するか、男女の役目があることが分かって競技中でも練習のような感じを目指している。(他の選手とは比較しないで普段の自分たちの習った練習通りの踊りをする。)
2004年(平成16年)度大会は、ほとんど準決勝以上の成績であった。これは、女性の先生からパートナーの立場として女性の役目、それから男性のリードを習い始めたのと、上位選手との合宿、トッププロやアマの鑑賞などで目標である一体感に見える踊り(1人で踊るものではない)が分かったためかもしれない。
2004年度からJBDF東部総局、新潟県支部の持ちクラスが、そのままJBDF関東甲信越ブロックの級に移行
同時に東部ブロックの1つ降級のクラスにと自動的に登録される。 

2005年3月:パートナーが東京で入院・・重なって母も寝込みまるまる2ヶ月間ダンスから離れる。しかし、頭の中で理論を理解出来ていたので、休んでいてもそんなにはあせりはなかった。

2007年7月:元A級の選手に勝ててないとA級になれないので成績伸び悩みの突破口を開くため
マキノ先生にも話しをして柏崎市のイガラシダンススタジオに入会・・週1回づつ通うことになった。
先生と私たちの間に緊張感が出来て前以上に活発に練習するようになった。
2007年(平成19年)8月に新品の燕尾服&ドレスを東京に行き思い切って購入した。
結構似合うじゃない!?これで2チェックは違うはず。
2009年2月:成績が上がらないまま悩んでいた私にダンス仲間から瞳先生を紹介された。
バイタリティーと情熱あふれる先生に新鮮さを感じ、一筋の光が見えてきた。
レッスン内容はすべてビデオに記録、後から確認している。
(この頃からパートナーと共に踊りを築いてゆくことの大切さがわかってくる。)
  2010年(平成22年)8月、初めてのデモンストレーションFOXTROTが好きなので曲も振りもほとんど自分たちで考えた。競技と違う勉強になった。魅せる踊りを心がけた。 
機会を与えてくれたイガラシダンススタジオに感謝している。
 2010年9月(平成22年)スタンダードでパートナーが足形を覚えだした頃から踊りの意識を持ち出した。ラテンに挑戦してみた。プロの中古だが衣装も買った。皮がむけて生き生きとした笑顔がでる様になった。この衣装がとても良く目立つのかクラスは低いがラテンで4連続優勝した。

 2011年3月くらいからストレスからくる病気にて著しい基礎生活力低下(寝られない・食べられない・あらゆる欲がない)になりました。11日に東日本大震災が起きて相乗効果で精神的にすごく辛かったです。一時は仕事を2週間休んだりして練習会に行ってもダンスどころか動くことも出来ずに気分を落ち着かせる意味で人としゃべっていただけでありパートナーには迷惑をかけました。そんな中で練習できない間も支え耐えてたパートナーのために踊りたいと思ったことと普通に生活出来ることがどんなに幸せなのかを感じました。これがきっかけで精神面が変化したのです。体力が落ちている中ですがその後の大会では良い成績を連発したのです。(技術面だけではなく精神面が踊りを大きく変えることが証明された。)

 2011年(平成23年)、後期:パートナー新ドレスを着て出場楽しみながら踊ってスタンダードで2回優勝できました。
(左:JDSF富山B級戦 右:JBDF新潟シニア選手権)
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